出来ないことを出来るようにするのは素晴らしくない?
先日、SNS上で僕が書き込んだとある投稿に、友人が返信をくれた。
元々の僕の投稿はたぶん
「苦手なことが多すぎて嫌になるけど、ひとつひとつ克服していくしかないなー」
みたいな感じだったと思う。それに対して友人は
「僕は『出来ないことを出来るようにする』ってことは、あまり素晴らしいとは思わない。」
「それぞれが得意なことをして世の中が回るのが一番理想的なんじゃないか。」
というオピニオンを投げ掛けた。僕はその時は
「まあ確かにそれで回っていくなら理想的かもねー」
ぐらいに思い、その意見に対して異論はなかったが、実感を持って納得するほどでもなかった。
一般的に『出来ないことを出来るようにする』というのは美しい行為として語られることが多いように思う。例えば『営業が苦手な人が、毎日バーに通って人と喋りまくり、対人スキルを身に付けた』とか、『守備や走りはもの凄く得意だけどバッティングが苦手な野球選手が、毎日夜遅くまで素振りを練習して強打者になった』とか、そんな具合。
確かに自分の苦手なことに真正面から向き合い、地道な努力を積み重ね、苦手を克服することは素晴らしい行為のように思う人も多いだろう。僕もそういった価値観だったと思う。
苦手なものに取り組むことは美徳?
私見だか、これはたぶん日本の学校教育がそういう価値観を育んだんだと思う。大学入試センター試験というシステムにより全教科万遍なく勉強することが求められる。苦手教科で足を引っ張ることのないようなバランス感覚が必要なのだ。
「苦手なものに挑戦し、克服することは美しい」という価値観は、なにも日本人だけのものだけではない。努力で困難を克服するサクセスストーリーなんかは海外映画でいくらでも見つけられる。
友人は別にそういう価値観に異を唱えようとしているわけではない。ただ、特に仕事に関して言えば「苦手なことを潰して出来ることを増やすよりも、自分が楽に出来ることだけをするほうが、全体の幸福度は上がる」ということが言いたいようだった。
一通のメッセージ
僕は今、とある会社から依頼を受けて、デザイン制作の仕事をしている。主にオーダーメイドのデザインで、お客様から注文があればデザインをし、提案をする。OKが貰えればそのまま加工・発送となり、OKが貰えれなければ何度かデザインを修正するというのがおおよその流れだ。
先日も注文がありデザインを作成することとなったのだが、今回は単に「指定された3行ほどの文字を入れてください」という要望だけで、その他の要望は全くなかった。
正直お客様からかなり細かい要望があり、デザインに時間のかかる案件もちょくちょくある中、こういった『ほとんど具体的な要望がない』案件は楽な案件だ。今回もネットでフリーの飾り枠のデータを探してきて、その文字を囲むだけでパパッとデザインを済ませた。言葉は悪いがやっつけに近い。まあこれから修正がガンガン入るかもしれないし、あまり最初から手をかけすぎないのはある意味正解だからだ。
けれど、お客様から返ってきたメッセージは意外なものだった。
素晴しいと思います。流石にプロの作品と感じ入りました。ありがとうございます。
自分にとっては些細なことでも、他人にとって価値のあること
このメッセージを見た瞬間、先日友人が言っていたことが一気に腑に落ちた。ああ、僕にとってはやっつけ仕事でも、お客様はこんなに喜んでくれている。これは手を抜いたことを申し訳なく思う必要もないんだ。だってお互いが満足しているんだから。
考えてみると、世の中には過剰なサービスが多すぎるかも知れない。競争のため、顧客の囲い込みのため、相手が必要としているレベルをはるかに超えたサービスを提供することも多い。
僕は大抵そういった競争の先に待っているのは、疲弊しかないと思う。過剰なサービスの競争で疲弊していく未来を積極的に望んでいる人なんているのだろうか?恐らく皆もっと楽に生きたいはずだ。
友人の言葉と今回のお客様のメッセージで、人間みんながもっと楽に生きることは可能なんだろうと感覚的に思った。皆もきっと、「これなら楽に人に教えられる」という分野があるはずだ。そういったものを「売る」のではなく「共有する」ような生き方が、これからもっと広まってくれることを願ってやまない。